R&D

製品開発物語

プラスチックメガネ
レンズ材料

日本のメガネ市場を変える

私が当時の技術研究所第6研究室に所属していたころ、ソーダ灰の炭酸根をカーボネートとして有機物に固定できないか、という極めてシーズ指向的な探索研究の中から、猛毒のホスゲンを使用しないADC(アリルジグリコールカーボネート)合成のニュープロセスが生まれた。ただ、ADCの用途がわからない。調べてみると、プラスチックメガネレンズの原料であるという。当時、国内ではメガネレンズのプラスチック化率は約10%であったのに対して、アメリカでは80%以上であった。軽くて、割れにくく安全である、というのがその理由である。私は、日本でもこれは必ず伸びると確信した。1982年、紆余曲折の末、徳山製造所東工場に220トン/年のプラントを建設した。このプラントを軌道に乗せるには大変な苦労があったが、これについては長くなるのでここでは述べないでおこう。ADCは極めてニッチな製品のため、プラントがフル稼動すればなんとかペイする量であった。あわせて、マーケティングを開始したが、素人のしかも全く未知の分野なので困難を極めた。ただ、このマーケティングの中で諏訪精工舎(現 セイコーエプソン株式会社、以後S社)と出会うことになる。

S社はメガネレンズの分野ではプラスチック製のみを製造しており、国内の約70%のシェアを有していた。ADCのテストを繰り返し行ってもらい、担当者とも懇意になる中で、「ADCよりも屈折率の高い材料を開発してもらえないか。そうすれば、プラスチックレンズがガラスより厚くなるという欠点がなくなる」とのこと。この提案を受けて、S社との間でHIP(高屈折率ポリマー)の共同開発がスタートした。

OB 四方 和夫さん

世界初への挑戦

1983年6月社内報「とくそう」より

ADCの場合と違って、これは目的的な探索研究である。HIPの目標値を設定して、探索を開始した。スケジュールは、2年以内になんとかHIPレンズを上市する、という極めて厳しいものであったが、とにかく精一杯やってみようということで、両社の若い研究者が燃えた。HIPの文献を調べてみたが研究例はほとんどなく、そのことが当事者の意気込みをさらに高めた。うまくいけば、世界初になると。ポリマーを高屈折率化するのはそれほど難しくないが、透明性、アッベ数、研磨性などといったメガネレンズとしての他の性質をも合わせて満足させるのは容易ではない。さらに、均一なレンズに成型するためには、成形性の良いモノマー系が求められた。成型後の残留歪をなくすのには苦労した。最適なモノマー系の選択と最適の成型パターンが重要であった。諏訪と徳山の約760キロ間を幾度往復したことか。量産化段階では、担当者がS社の工場に幾日も泊まりこんで最後の詰めを行った。

お互い田舎者同士で気が合い、すっかり意気投合していた。毎回の議論は厳しかったが、仕事を離れると杯を交わして友好を深め信頼関係を確認した。納期というプレッシャーの中にあっても不思議とお互いに悲壮感はなく、HIP開発を楽しみながら進めていった。

社会のために

徳山製造所の第2研究所に主モノマーのプラントを建設して、量産化試験を行い、苦労の末に世界初のHIP系(TS-26)のレンズがS社から市販されたのは、共同研究を始めてから3年後だった。新聞発表したらすぐに九州の方から「私の母は白内障のため視力の低下がひどく、牛乳瓶の底のような厚くて重たいメガネをかけています。軽くて薄い新製品はどうすれば入手できるのでしょうか?」との手紙が来た。我々の技術を待っていた人がいたのだ。

企業のミッションの一つは社会貢献というが、この時ほどそれを感じたことはない。そして、この共同研究を契機に、S社へ従来品の原料ADCも100%当社の製品(TS-16)が入るようになり、東工場のプラントはフル稼動に入った。その後、当社のメガネレンズ材料は幾多の変遷を経て現在のフォトクロミック材料主体の開発に変わっていった。

研究開発にとって最も重要なことは、担当者全員がテーマを自分に完全に納得させること、要は「腹入れ」することである。腹入れのためにはどれだけ時間がかかってもいいと私は思う。とくに、これだけ情報が充実している昨今、テーマは「探すものではなく、選択するもの」になってきた時代にあってはなおのことである。共同研究のベースは「お互いがお互いをいかに信頼できるか」にかかっているといっていい。そうすれば、よしんば共同研究が失敗したとしても、お互い悔いは残らないはずだ。

※ADCは有機合成化学協会技術賞、HIPは日本化学工業協会技術奨励賞を受賞している。

1983年6月社内報「とくそう」より

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