R&D

製品開発物語

ゼロギャップ

苛性ソーダの製法転換

1973年6月、徳山製造所の玄関に大量の魚がばらまかれた。熊本県水俣湾から徳山湾に飛び火した水銀問題である。当時、当社の苛性ソーダの製法は水銀法だったが、この水銀問題に端を発して製法転換を迫られた。ここに新たな苛性ソーダの歴史が動き始めたのである。当社はイオン交換膜法(以下、I法)を開発することを決め、1974年に技術研究所の中にFプロジェクトチームを発足させた。入社3年目。「会社は存続できるのか」。私のI法開発の15年は、こんな思いでスタートした。

OB 白神 誠一さん

Fプロジェクト始動

Fプロジェクトは、1975年にI法のパイロットプラント、その後外販を意識したデモンストレーションプラントを建設した。食塩電解で用いられるイオン交換膜は、陽極側のナトリウムイオンを陰極側に電気的に移動させる機能を有するが、当時の大きな課題の一つに膜内に固定しているイオン交換基(当時はすべてスルホン酸)の性能にあった。1980年には、当時の生産技術研究所の中原 昭彦さんが考案したイオン交換膜の陰極表面のスルホン酸を、カルボン酸に化学改質するプラントを完成させた。この膜により、製造できる苛性ソーダの濃度は20%が限界ではあったが、当時としては世界最先端の高性能な膜であり、後に大手化学メーカーに採用された。この膜で性能競争に自信を得た当社は、技術の外販を決め、開発からエンジニアリング第2部へと組織変更を行った。私はこのプラントの完成を迎えた後、労働組合に異動になり、後ろ髪を引かれる思いでエンジニアリング第2部を後にした。

立て直し

私は1984年に復職したが、1985年に第2電解(以下、2電)が稼動すると、さまざまな不具合が顕在化し始めた。一例を挙げると、研究所で電圧低下が期待される陽極の形状が提案されると、強度計算もされないまま電解槽に採用され、結果として陽極は大きなたわみを生じた。ゼロギャップには致命的な現象である。このままでは製造できない。時間との戦いだった。不具合が起こるたびに、モデルプラントで再現実験を行い、対策を立てた。また、海外のプラントでも不具合が多発し、クレーム処理で飛び回らざるを得なくなった。私の海外出張の回数が、社内3位と当時の社内報に掲載されたくらいである。そんな中、エンジニアリング第2部は解散し、電解技術課に移った岡村 正昭さん、前田 克己さん、青木 健二さん、松島 博さん、佐伯 典昭さんと私の6名は、本格的に2電の対策と海外のクレーム対応に追われることになった。

大連染料廠出張。右から2人目が本人

ゼロギャップの芽生え

私が労働組合の専従であった4年間の技術の進化は、めざましいものであった。膜は表面改質法からラミネート製法へと変わり、生産される苛性ソーダ濃度も20%からより生産性の向上が図れる33%に高まっていた。当社は外販競争を繰り広げ、韓国の国都化学、台湾のFPC、クウェートのPIC、中国の大連染料廠の受注に成功した。また同時に、自社の第2電解槽の建設も手掛けていた。この様な中、究極の省電力を目指し、ゼロギャップ電解槽の開発を始めた。ゼロギャップとは、陽極と陰極を膜と密着させた構造であり、溶液抵抗をなくすことで電力の消費を低減する技術である。しかし、外販に注力するあまり、肝心の開発に十分な力が注げていなかった。定量的な評価が全く欠けていたのである。

電解槽は、陽極室と陰極室から構成され、陰極と陽極は陽イオン交換膜で分離されている。陽極室には精製塩水を供給し、NaClは陽極面で電気分解され、Cl2が生成する。電気分解で発生したNa+は陽イオン交換膜を通り陰極室に移動する。陰極室には純水を供給し、陰極面で水が電気分解されH2が生成する。電気分解で発生したOH-と陽極から移動してきたNa+が結合し苛性ソーダができる。陽イオン交換膜の機能により、Cl-とOH-は移動できないため、高効率で高純度の苛性ソーダが得られる。

メンバーの熱意と幸運

2電の対策を行うにあたり、ゼロギャップの問題解決を最重要と定め、全精力を傾注した。問題点の把握に努め、対策案を挙げ、実効性について激論を交わしながら、一歩一歩進めていった。途中で上手くいかず、諦めそうになることも多かったが、メンバーの熱意が通じたのか、いくつかの幸運にも恵まれた。

1つ目の幸運は、実機サイズ5ユニットの実験設備が、2電の傍に設置されていたことだった。この設備のおかげで、自由に実験ができ、実機に生かすことができた。青木さんが中心となって、定量的なデータを徹底的に把握し、その対策の検証を全員が行った。また、ゼロギャップ実現のための一番の課題は、電極と膜の密着性を持続することができるバネ材の開発であった。小さな力で大きく変形し、しかも復元力のあるバネ材を、腐食環境に耐える唯一の材料であるニッケルで作る必要がある。それを叶えてくれたのが、日本メッシュ工業株式会社の故 浅尾所長だった。岡村さんと私は奈良の工場に何度も足を運び、バネ材の新しい編み方と波付け方法を提案すると、浅尾所長は我々の提案通りに作るよう工場長にかけあってくれた。日本メッシュ工業株式会社の全面的なバックアップのおかげで、満足すべきバネ材を作り出すことに成功した。この様な協力を得られたのが2つ目の幸運だった。他にも、当時の技術研究所の山下 博也さんが開発したニッケル錫合金メッキの陰極が実用化され、また森脇 亨さんが小型電解槽で不具合の解明に成功するなど、絶妙なタイミングで幸運が舞い込んできた。

おわりに

平成13年度特別(社長)表彰を受賞
後列左端が松島さん、4人目が岡村さん、
前列左端が青木さん

世界最高水準の省エネを実現するゼロギャップ電解槽を確立できたのは、開発に携わった全員の「自分たちが何とかしなければ」という強い責任感と、社内外の多くの人たちの協力のお陰だと思う。ゼロギャップ技術は、日本の電解槽メーカー2社に技術供与し、技術確立後10年が経過した後に、必要な特許を取得した。結果として、2007年に日本ソーダ工業会の技術賞と発明協会会長奨励賞を受賞した。この技術は、供与先の2社を通じ世界で使われることで、エネルギー消費の低減ひいては地球温暖化防止にも貢献している。

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