R&D

製品開発物語

SEプロジェクト 前編

私が初めてポリシリコン(高純度多結晶シリコン)・乾式シリカの計画を知ったのは、31歳、1981年の春先だった。企画部の村上 昭爾さんが、「自分の専門は有機化学。いろいろと調べたが残念ながらそこにテーマはない。やるべきは無機のポリシリコンだ。副生原料でシリカをつくる。美谷君できるよね」と新橋のいつもの店で水割りを飲みながら言った。私は当時、東大生産技術研究所に派遣され、藤井 裕二さんの企画部に籍を置く部屋住みだった。1981年12月、村上案を藤井さんが推進して企画はプロジェクト化され、1984年夏にわずか2年半で完成した。あの頃を振り返る。

OB 美谷 芳雄さん

「つくれるはず」だが、何もわかっていなかった

このプロジェクトは「SE」と命名され、発足して3カ月を過ぎた1982年4月に私はSEに配転した。徳山では平島 偉行さんがSEを束ねた。SEにはA(蒸留)、B(ポリシリコン析出ベルジャー)、C(シリカ)の3チームがあり、数カ月後にエンジニアリングチームができた。全メンバーがプロジェクトリーダー藤井さんの下で月に一度連絡会を開き、実験と設計の進捗を確認して翌1カ月の計画を決めた。

世の中に既に存在する物質をつくることがミッションといえども、やっていることは研究開発だった。「つくれるはず」だが、何もわかっていなかった。私はCチーム(シリカ)で、チームリーダー椎木 和彦さん、手嶋 孝則さん、石川 政利さんの4名だった。私はまずシリカの粒子や表面の物理、化学的な性質を表す数種の「基礎物性」、およびその測定方法を考えた。そして、市場のお手本のシリカを入手して測定した。ここでは入社以来10年間ほぼ毎日行ってきた測定経験が生きた。基礎物性は実用性能とは異なる。実用性能の測定値はシリカ間の相違を必ずしも言い当てない。使い方でシリカ間の序列が変わってしまう。対する基礎物性は、良否、優劣でなく「シリカの特性」を浮き彫りにする。「基礎物性」はシリカを特定するベストの指標だと自信をもって言うことができた。

次に製法実験に取り掛かったが、ここから先は未知だった。製造するシリカは1種類。製法を一点に絞って確立するか、全体の体系を探るか意見が分かれた。後者が近道という主張が通って、ベンチスケールを手嶋さんと行った。シリカ生成のバーナー方式さえも分からなかった頃、実験は粗いメッシュで条件と結果(生成シリカの基礎物性)を点と線のように結び行う。体系全体がイメージできるまでを、手嶋さんとの間で「遊び実験」と呼んで重視した。そして反応方法が決まり、最も重要な製造因子は温度と分かった。そこからの公表用のデータ取りは「おさらい実験」のむしろ楽な作業であり短期間で終えた。

一旦つぶれかけたシリカ開発

それまで研究畑であった私は工業装置を作るという魅力的な挑戦ができた。SE発足当初に椎木さんが既に備えた大型燃焼炉を使い石川さんとバーナーを開発した。まず、好みの構造でバーナーをつくる。燃やすとバーナー先端に付着物が急成長する。バックファイヤーする。うまく燃えない。失敗の連続の中で頭を抱えたある時、「そうだったのか!」とひらめいた。石川さんと顔を見合わせて笑った。その後ほどなくして秘密のバーナーは完成した。

1年が経ち特許対策も一段落した頃、藤井さんは「パイロットプラントをやれ」と突然言った。本プラント勝負と思っていたので渋ったところ、返ってきたのは「ポリシリコンと違ってシリカのような難しい品物は、顧客が評価しないと分からない」だった。「これは命令だ!」は、藤井さんの懐かしいフレーズだ。実は、時期を少しさかのぼる頃、経営トップは「ポリシリコンは品質が分かるのでOK。しかし、粉モノ(シリカ)は良否が分からないのでNG」とシリカは一旦つぶれかけた。シリカは別に難しくない。品質の判断は「基礎物性を合わすつくり方でやれます」と東京の藤井さんに社内便を送った。「美谷からラブレターをもらった」と藤井さんは言い、シリカは復活した。その延長線としての顧客評価用のパイロットだった。

およそ半年間をパイロットに費やし、試作した数百kgのシリカは顧客で合格した。同時にパイロットを使い製造技術をいろいろ試すことができた。典型的な1日は、朝から前日の試作品を分析、夕方に工務室に三々五々と集まり、そこでその日の実験内容を決定し、夜に実験する。すなわち1日を2倍に使う。2年という期限に間に合わすには、そういう日が多かった。

1984年 建設中のプラント

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