R&D

製品開発物語

SEプロジェクト 後編

エンジニアへの憧れ

前編で工業装置に関して、バーナーの開発を述べた。これら装置は、エンジニアから見ると実行できるかどうかの瀬戸際がしばしばあった。ある時、旗色が悪くなり、研究畑の私は思わず「(実行しなければ)品質が駄目になる」と主張した。すると、梅山 健史さんから「物性(品質)の御旗が"ジャーン"と立ったからには仕方ないな」と返ってきた。それならやってみるしかないねという意味であり、当時はそのような雰囲気があった。

私は初めて設計という分野に少し関わったが、シリカの嵩密機は気づかぬ間に梅山さんが作っていた。当時のエンジニアたちは、プラント全体のアレンジ以外にも個別装置をケアした。主要装置の自社製作は、まさにエンジニアによる研究開発だった。構造や材質に挑戦して試作し、あとは本装置を動かしながら改造する。もし失敗しても責任をもって何とかする。期限に間に合わせ、過剰設備とならない秘訣だった。ポリシリコンもシリカもこうしてプラントができていった。SEは、当時の会社がもつエンジニアリングの総力を結集したものだと思う。私はものづくりが化学装置という形で具現化する世界に興味を感じていき、後年にエンジニア必携の「プラント配管ポケットブック」をもらった時はエンジニア気取りで大変嬉しかった。

開発当時の美谷さん

不純物との格闘

1984年8月社内報「とくそう」より
多結晶シリコン200トン/年、
乾式シリカ500トン/年でスタートした

Aチーム(原料蒸留)が取り組んだポリシリコンの純度をイレブンナインに高める技術は、半導体用なので特に重要だった。私はCチーム(シリカ)だったが、プラント稼動の3カ月前にシリカの目途が立ち、Aチームの純度に関わる機会を得た。それは「もし、実プラントで不純物除去がうまくいかなければ・・・・」と、万一に備えて試してみたいある仮説がふと頭に浮かんだのがきっかけである。この仮説は私の中で確信に変わり、訳の分からぬフォートラン計算を試みつつ、現実テーマに取り上げたいと秘かに願っていた。しばらくして「そんなバカな計算は止めて実験しろ」と、その仮説はテーマになり、要素検討の短期実験を試みて時を待った。

プラントが稼動した時に、不純物レベルは満足できるものではなかった。メンバーを集めた会議で「このままでは百年経っても同じことをやっているぞ」とリーダーの藤井 裕二さんが決断を下し、実プラントでその仮説を試す機会が訪れた。技術分野にもよるが、いくら計算しても実験しても分からず、実プラントで試すしか方法がない場面がある。

不純物除去の仮説を試したその日のことは、総天然色で覚えている。朝から藤井さんが夏にしては厚手のくすんだ藍色の半袖シャツ姿で陣頭指揮を取った。あとは、まるで楽しむかのように工務室で雑談しながら結果を待った。蒸留の分析数値が部屋に届いた。その数値は、仮説が当たったことを示していた。

藤井さんは瞬間、ふっと上を向き何のコメントも発さなかった。なんともいえない空気の中、平和大橋まで車で送り、藤井さんは夏の夕方の徳山の町に消えていった。数日して高純度ポリシリコンの析出を確認できた。その時に「お前も化学屋らしくなった」と初めて言われた。「お前のような物理屋は・・・・」が枕詞につくと、必ずお叱りの言葉が続くことから考えると、あれは褒め言葉だったのだろう。

振り返ると

1984年の夏、ゼロから始めて計画通りに2年半(建設期間は1年未満)でプラントは完成した。技術の完成度を求めたら、市場参入のタイミングを逸しただろう。速度の重視は技術の軽視ではない。「新製品を作る」。その一つに向けて、必要なことを何でもやってみるエネルギーがあった。藤井さんは言う。「一つのことだけをやってテーマを完成するのは、会社にとってどれほど素晴らしいことか」。続いて、「いろんなテーマを与えるとそれが必ず逃げ場になる(から完成しない)」と結んだ。研究開発の在り方を言い当てた名語録だったと思う。

ポリシリコン・乾式シリカの企画を起案した村上 昭爾さんはBチーム(ポリシリコン析出)で半年間ほど研究開発を行った。しかし、1982年の秋、お寺の住職を継ぐために余儀なく突然の退社となった。プラントが完成した翌年のある日、藤井さんは「今から村上のところへ行くぞ」と、光市室積の長安寺を不意に訪ねた。お寺の午後の陽だまりの中で久しぶりの歓談だった。

SEプロジェクトの技術は、上司で先輩の平島 偉行さん、藤堂 正人さんのもとで徳山製造所の製造現場で継承された。故 藤井 裕二さん、故 村上 昭爾さんを偲びつつ、「あの頃」汗をかいた仲間たちとともに、今後のポリシリコン・乾式シリカの技術の進化と発展を期待する。(完)

現在のポリシリコン製造部

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